抜刀隊 その1 改訂 - Video
PUBLISHED:  Sep 22, 2012
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はじめにボーカロイドで歌を作成したが、うまくいかなかった。
これが現状では精一杯なので、歌がよくないのは許してほしい。
抜刀隊の背景と歴史について
戦後、日本では敗戦後に立場が逆転し、矮小化されてしまった神様や人々がいる。
それは天照大神様だったり、神武天皇だったり
存在そのものが消された神功皇后だったりする。
代わりになぜか日本を蔑視した表現を多用している魏志倭人伝の卑弥呼なるものが日本書紀や古事記を無視して実在間違いなしの人物という事になっている。
欠史八代の天皇になると悪意すら感じる。
どんどん天皇系図を書き換えていく事が横行した。

そしてやはり大日本帝国軍人も矮小化された。
その一番手に上げられるのがこの野津兄弟のように思える。
とにかく兄の方はほとんど忘れ去られている。
なぜか?新撰組なるものが、有名であるとは驚きを禁じえない。
弟はさすがに日清日露戦争においての功績者の筆頭に上げられる軍人であるが故に消すのは無理だったようだが、兄の方はと言えば新撰組のような組織の下っ端よりも知られていないと言うのは幾つかの組織が小細工したからであるのは明白であると言えよう。
薩英戦争から鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争まで野津兄弟抜きでは語れないほどの活躍をしているのである。
まったく以ってありえない現状が今の日本を覆いつくしている。
彼らが歴史上から姿を消したのはやはり敗戦が主な原因でしょう。
野津兄は大山と共に国歌 「君が代」を選定した人です。

西南戦争を指揮したのも野津兄弟です。

人斬り半次郎こと桐野はその名に恥じることなく
西南戦争では部下達と共に戊辰戦争と同じく人を切りまくりました。
抜刀術の天才でした。

しかし最後は戦場で銃殺されました。

{人物紹介)

野津鎮雄 西南戦争では第一旅団司令長官でほぼ現地で指揮を取りました。
野津兄で戊辰戦争でも五番隊長として大活躍しました。
西南戦争の後に病死しました。
西南戦争では故郷の鹿児島の英雄達を殺した政府軍側の裏切り者として
忌み嫌われていた面もありました。
事実、野津兄弟がいなければ西南戦争はもっと苦戦していたでしょう。
子供にも恵まれず、家督を弟に譲り、その活躍も弟が褒め称えるだけで戦後には忘れ去られています。

野津道貫 戊辰戦争から日露戦争を戦い抜いた人で伝説の軍人です。
意外と気配りをする人で優しいです。
日露戦争は彼のおかげで勝利しました。

桐野利秋(中村半次郎) 人斬り半次郎 抜刀術の天才で戊辰戦争では活躍しました。
幕末では要所要所で活躍しています。
新撰組が内部粛清をした時に逃げてきた者を哀れに思い匿っています。

前回からの補足

この動画には女隊とあります。
薩摩は女の人が薙刀で集団で役所やコメ問屋を襲いコメを奪いました。
当時の新聞にも載っています。
意外に思われるかもしれませんが、実は女性が発言権を持ったのは
この明治政府からなのです。
それまでの身分差別をなくし、女性の身分を高めて、女子学校を作り
西洋の洋服の着用とそれまで身分の高いものしか着れなかった袴などを着用を認めたのは初代文部大臣の森有礼でした。
津田梅子などの日本の女子教育の先駆者を育てたのも森有礼でその後に女子大などもできました。
ただ大久保や森有礼は暗殺されました。
その後の鹿鳴館などの華やかな外交文化が咲き誇りました。

森有礼は司馬先生好みの題材ですが、これが無視されたのは森有礼を殺したのは
実質デマを流した新聞社であり、新聞社に勤務している司馬先生にはやはり書けない題材だったようです。
代わりに当時卑怯者として有名だった新撰組を庇う作品を書くことで戦前の全ての道徳観をよいものも悪いものも含めて全て破壊したのです。

ただ事実、薩長は降伏するものは許し、江戸の人々と共に明治維新から女性達は輝き始めてきたのです。また科学立国としての日本の基礎もこの頃に確立していたのです。

司馬先生が書いたような薩長が野蛮と言うのは実は小説上の単なる妄想にしか過ぎないのです。
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